STORY
Organic cafe 知恵の木が誕生したいきさつを物語風にまとめてみました。それは不思議なシンクロの連続でした。人生って面白い。その奇跡は今もなお続いているのです・・・。
noahnoah
私のマクロビ物語〜後編
文・noahnoah(知恵の木ディレクター)
前編からの続き〜
初めての海外。初めてのニューヨーク。見るもの全てが輝いていました。
私は、タイムズスクエア近くの安宿に居を構え、毎日マンハッタンの通りを闊歩しながら、博物館やギャラリーを訪ねて回り、至福の時を過ごしました。
少しでもお金をセーブする為に、日に3度の食事はファストフードを利用しました。いや、正確にいうと、食べたかったのです。親からの厳格なマクロ食の強要、その反動で、すっかりファストフードに憧れを抱いていた私にとって、
マクドナルド、バーガーキング、KFC、ピザハットなど、鮮やかな原色の看板が立ち並ぶタイムズスクエアは、まるでパラダイスのように見えました。ここでは、親に監視されることもなく好きなだけファストフードが楽しめるのです。
朝はコーヒーとチーズバーガー、昼はマックシェイクにチキンナゲット、夜はちょっとぜいたくにビッグマック、などという食生活を連日のように謳歌していたのです。
しかし、1週間を過ぎた頃から体に異変が現れはじめました。なんとなくだるくなり、便秘の症状が出始めました。最初は旅の疲れだろうと思っていたのですが、2週目を過ぎると時々頭痛や腹痛を感じることが多くなり、3週目に入ってからは、朝から体が重く、時々吐き気をもよおすこともありました。
うすうす食事に原因があるとわかってはいましたが、空腹になるとたまらなくファストフードが食べたくなるのです。それは、まるで中毒症状のようでした。
交互に押し寄せる頭痛と腹痛の波。日に日に体調は悪化し、気持ちも浮き沈みが激しくなりました。そして、もう限界との思いから予定よりも早くボストンの久司先生宅にお世話になることにしました。
ボストン市内、中心部から少し離れた閑静な住宅地に久司ハウスはありました。先生ご夫妻は不在でしたが、ハウスの管理をしているアメリカ人男性が、私が空腹なのを感じ取り、すぐにあるもので晩御飯を用意してくれました。
テーブルに並んだのは、ふっくらと炊き上げられた玄米ご飯、それに具沢山の味噌汁、そしてたくわんの古漬け。 日本でいつも目にする定番メニューです。しかし、その時の私にはそれらがとても魅力的に見えました。
味噌汁をひとすすりすると、その懐かしく温かな風味がゆっくりと喉を伝っていきます。そして玄米を一口、含んで噛み始めると、唾液とまざったえもいわれぬほどの滋味が口の中いっぱいに広がっていきます。それら食物のなんと豊かで、優しいことでしょう。
疲労しきった私の体にそれらは深く染み入り、ただただ感謝の気持ちが湧いてきました。こんな気持ち初めてでした。
「私に必要な食物はこれだったんだ・・・」心の底からそう思いました。その後、体調はみるみる回復しました。
その頃の久司ハウスには、常時十数名ほどのゲストが滞在していました。ヨーロッパやアジア諸国から大勢の若者たちがマクロを学びに来ていて驚きました。食事の前後には必ず手を合わせ、食物へ感謝の祈りをささげます。一人の例外もなく私たちの東洋文化に興味と深い尊敬の思いを抱いていました。
合気道を何年も学んでいる者、書をたしなむ者、タオイズムの研究家などもいました。彼らとはすぐ仲良しになり、互いにニックネームで呼び合いました。
私の名前はアルファベットで表記すれば「Naohiko」なのですが、外国人にとっては、発音しにくいらしく、ハウスメイトの一人がスペルを組み替えて「Noah」と名づけてくれました。ハンドル・ネーム「noahnoah」はここからとったものです。
夕食後は、ハウスメイト皆でリビングに残って夜遅くまで色々なことを語り合いました。私はこのひとときがとても好きでした。一粒の玄米の話から始まって、果ては宇宙論にまで広がりました。若者それぞれが、マクロを通じて健康になった喜びと、それぞれの夢を熱く語りました。
国に帰ったらマクロの指導家になるのが夢という者もいました。 そして、どうすれば世界が平和になるかというテーマになると「この混迷する世界を調和に導く鍵は、私たちの毎日の食卓にこそある」という結論に一同深く頷き、番茶を飲んで締めくくるのが常でした。
宝物を探しに海を越えて来た自分でしたが、その宝物は実は東洋に、私の生まれ育った日本という国にあったのです。それからの私は、ハウス滞在中、まるで人が変わったようにマクロの勉強に熱中しました。
ハウスでの食事は滞在者同士当番をきめて行うのですが、これもすすんで挑戦しました。十数人分のマクロ料理を英文のレシピ片手に、またアヴェリーヌ先生(久司先生の最初の奥様・故人)に直接ご指導頂きながら作らせて頂く時間はとても楽しいものでした。
調理中の煮豆などよく味見され、「あなたは筋がいいわね。ずっとここにいたなら、立派なマクロビオティックのシェフになれるわよ」などとほめて頂くと、有頂天になって、さらに美味しいものをと熱を入れて作りました。
ハウスのあるブルックライン地区は、東海岸でもオーガニック運動の盛んな所で、近くには、オーガニック・スーパーや、マクロのレストランなどが多くありました。中でも私が気に入っていたのは「オープン・セサミ」というレストラン。
そこはお忍びで、故ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻や故ジョン・デンバーなどのミュージシャンが多く訪れていたそうです。休日になるとハウスメイトと連れだって、ここで食事を楽しみました。ノンシュガースウィーツの美味しさに開眼させてもらったのもこの店でした。
1日3度の完全マクロ生活。始めはできるだろうかと不安でしたが、毎食毎食のバラエティーに富んだ穀菜食はとても美味しくて一度たりとも不満を感じたことはありませんでした。また、その時の体の調子良さといったらたとえようもありません。
体調のみならず、食物が精神や感性に影響を与えるものであるということも、よくわかりました。食事が変わってから、いつも心穏やかで平和な気持ちでいられました。
また、勘がさえて、例えばふと日本にいる友人のことを思ったりすると、その直後に本人から国際電話がかかってきたりすることが続き、大変驚きました。面白いほどにシンクロニシティーが頻発するのです。
久司先生いわく、「植物、特に稲は大地から天に向かってまっすぐに伸びたアンテナです。この穂先には太古から続く地球上のあらゆる情報が宇宙に向かって発信されているのです。ゆえに、玄米を良く噛んでいると、感性は研ぎ澄まされ、本来人間には何が大切かが自然とわかるようになってくるのです」とのこと。
2ヶ月ほどの久司ハウス滞在で、私の意識も体も一変しました。このことはハウスを去ってからも続けられた1年にわたる私の旅の目的そのものも大きく変えてしまいました。さまざまな国でマクロと関わる人々に出会い、さまざまな奇跡を体験して翌年私は帰国しました。
・・・あれから、ちょうど20年以上が経ちます。私に直接マクロにつながるきっかけをもたらしてくれた祖父は、医師が宣告した寿命のちょうど倍、86歳まで元気に治療家としての天命を全うし、多くの人々にマクロを伝えて逝きました。
私の料理をほめて下さり、久司ハウスを訪れるきっかけを与えて下さったアベリーヌ先生も天国へと召されました。あの名店「オープン・セサミ」も今はありません。
ハウスの食堂で語り合った仲間たち。今でもたまに彼らから手紙が来ます。それぞれの国で、指導家として活躍しているようです。
私はといえば、・・・あの時語った夢-「マクロを共に楽しめるパートナーと、オープンセサミのような店を作って、多くの人にマクロの素晴らしさを伝えたい」仲間たちに熱く語った夢が・・・今、気がつけばいつの間にか叶っていました。
知恵の木をオープンセサミのような店にするには、まだまだ時間が必要かも知れません。けれど、様々な出会いを経て、あの頃イメージしていたものが今、現実になっていることに改めて驚かされます。
気づきのきっかけを与えてくれたのは私にとってマクロビオティックでした。祖父母や両親、家族をはじめ、久司先生ご夫妻、マクロの諸先輩たち、友人知人、今、私を生かして下さっている全てのものに感謝したい気持ちでいっぱいです。
祖父から始まるマクロビオティック物語-さて、これからの半生、私はどんな物語を描いていこうか。そして、どんな物語を子供たちに語ってやれるだろうか。 私は今日も美味しい玄米ご飯を頂きながら、そんなことを考えて、胸躍らせているのです。